インタビューNo.30

みんなの働き方

思ったとおりに叫ばなきゃ願いは空まで届かない


15年間、公認会計士事務所の総務や経理、秘書などバックオフィス業務の経験を積み上げてきた今井優生さん。40代半ばに、外資系コンサル会社へ転職しフィリピンマニラへの単身出向を決断。人生の折り返し地点で、この転機をどう受け止め歩んでいったのかチャレンジへの軌跡を辿った。

 

スカウトがきた時に、フィリピンへの出向は既に決まっていたのだろうか?

「最初は福岡所属の話でしたが、ちょうどフィリピンのプロジェクトで経理に精通している人を探していたみたいで。英語は喋れないと言ったのですが、現地へ行って喋れるようになりましょうと言われて。その時は自分が海外に行って仕事するなんてまったく思ってなかったんです

フィリピン風景(イメージ映像)

フィリピン風景(イメージ映像)

 

 

今まで留学経験や、仕事で渡航したこともなく、英語が話せない今井さんがフィリピンへの出向を決断したのはママ友の一言だったという。

「ママ友が『海外に行った時のデメリットはなくて、メリットしかないと思うよ』と背中を押してくれて。考えてみると、今までそんなにちゃんと自分に時間を投資してなかったなと思って。フィリピンに行ったら、日本で会えない人に会えるかもしれないし、会ってみようというテーマも掲げて、出向を決めました」

(イメージ映像)

(イメージ映像)

 

 

実際にフィリピンでの仕事を開始した今井さんは、多忙を極めたそう。

「現地の仕事で難しかったのは、カスタマイズ(調整)することでした。スタッフをコントロールし、いろんなスキルを使って、総合格闘技みたいな感覚で仕事をこなしていきました。

 

どこかに秀でるだけではここの仕事は回らなくて。現地に配置される日本人は管理者となる事が多く、職人気質よりも、管理能力が必要とされていました。インプットももちろん、やる事がとにかくすごく多くて。残業もけっこうありましたし。

 

もっと長い間フィリピンにいた気がしたので、帰国してからまだ1年半しか経ってないことに驚きました(笑)

 

 

それほど濃密な時間をフィリピンで過ごした今井さんは、仕事の多忙さに加え、言葉の壁にも悩まされた。フィリピンは英語とともに公用語でもあるタガログ語も使われる。英語はそれなりに理解できるようになった今井さんだが、タガログ語はBGMのようで、何を話しているのかもわからなかったという。

「40年ほど現地に住んでいる現地製造会社の会社役員と知り合いになり、この方が『言葉はそんなにたくさん覚えなくていいんだよ。覚えると余計なことを話して人間関係がこじれて、良いことって実はそんなにないかもしれない』とおっしゃってくださって。

 

英語やタガログ語が聞き取れないことが、当初ものすごく劣等感があったので、その方の言葉でちょっと肩の力が抜けたんです。それからは無理に聞き取ろうとしなくなったので、現地スタッフとも健全な人間関係でいられたのかもしれないです」

 

 

そんな今井さんが、現地で一番カルチャーショックを受けたことは、フィリピン文化や人柄、お金に対する価値観だったそう。

「日本では考えられないですが、政権がそんなに安定してなくて、大統領の一存で明日祝日にしますみたいにいきなり決まっちゃうんです。

 

それにフィリピンの人たちって、将来について楽観的に考える人が多くて、宵越しの金は持たないみたいな感じなんです。今日稼いだお金は今日使い切る人も大半で、銀行口座を持ってない人も多いんですよ。

 

幼少期というか今までの人生の中で貧乏だと、やりたい事に制限がかかってしまいとても不便だというのが、今までの人生で得た教訓だったので、私はそんなの考えられないんです

フィリピンペソと日本円(イメージ映像)

フィリピンペソと日本円(イメージ映像)

 

確かに日本では銀行口座を持つのは当たり前であり、貯蓄や投資を実行している人も多い。

 

貧乏が一番嫌だという今井さんの幼少期について尋ねてみると、実家が自営業をしていたこともあり、小学校中学年までは裕福な家庭環境で育ったという。それが一転、バブル崩壊で事業が傾き、両親が離婚。10歳の頃に生活が一変し、母親と妹弟の4人暮らしがはじまった。

 

親族の援助は受けつつも心身の弱い母親は働けず、常に生活は苦しかった。奨学金で大学まで進学したものの、卒業後、奨学金を返済する甲斐のあるほどの職に、この就職氷河期の中でありつくことができるのか懐疑的になり、大学をやめて働くことにした。

 

大学を中退した今井さんは、バイトをしながら19歳の時に中古車販売店で初めて正社員として採用される。そこでは営業職として働くも、教育関係の仕事に興味があったため、20代前半で塾講師に転職

 

しかし、現場での教育格差を目の当たりにして、メンタルが落ちていた頃に、結婚し離職する。その後、起業した旦那様の事業の手伝いと派遣での内勤を掛け持ちする日々の中、20代後半で、妊娠、出産を経験。育児中も、資格取得に励み、お子さんが1歳半の時に、前職である公認会計士事務所へ就職を果たす。

 

 

今井さんの経歴を伺ううちに、プライベートでも仕事でも休む暇もなく動き続けているように感じ、その原動力とはいったいなんなのか尋ねてみた。

「育児中は、社会との繋がりがなくなっちゃった感じがしてショックだったのかな。仕事してない自分が許せなかったかも

 

それと、お金がなくて生活が困るといった経験を子どもにはさせたくなくて、それが強かったですね。だから、原動力はそれだったかなと」

仕事風景(イメージ映像)

仕事風景(イメージ映像)

 

大変だったであろうことを淡々と話す今井さんの口調からは安心感が伝わり、周りから相談されたり頼られたりすることも多いだろうと感じた。

 

勉強熱心であり、15年間勤めあげてきた公認会計士事務所でも、入社半年でまとめ役に抜擢されたというが、それも納得がいった。

 

「事務所ではいろいろ経験させていただき、行政書士の資格も取ることができました。一通りの業務はやったので、これからどうしていこうかなと思っていた時に、親族から求人サイトへの登録をお願いされました。当時、転職意思はなかったのですが、登録した事がきっかけで、現職の会社からスカウトの連絡がきたんです」

 

 

お金がなくて生活が困るといった経験や資金不足で希望の大学とは違う道を選択せざるを得なかったこと、奨学金返済を考えて大学を中退したことなど、お金の大切さを人一倍感じていた今井さん。10代から現在までライフスタイルや働き方が変化し、フィリピン出向のチャレンジも経たいま、働く目的や意識は変わったのだろうか?

「なぜ働くのかというと、今の自分を保持するためのものかなと

 

学生時代は、家が貧しかったので、この状況を打開するにはどうしたらいいのだろうという、自分のやりたいことというよりも、自分がその中でできること、役に立つことってなんだろうみたいなことをずっと考えていました。

 

娘(長女)としてこうあらねばならない、妻として母としてこうあらねばならない、それをずっと優先的に考えているうちに、自分のしたいことが見えなくなって。自分に嘘つきすぎてわかんなくなっちゃう感じですかね。

 

だから、仕事で自分がこれやりたいって思ってイメージできたのは、フィリピンに行くと決めた時で、人生で初めてだったかもしれません。

 

今子どもが17歳ですが、発達障害と言われて障害者として働いています。親は先に死ぬから、子どもの居場所がなくなってしまうのではと思っています。

 

お金があっても、子どもは自分でコントロールしてお金を使ったりできないから、そういう面倒を見てくれる施設なり、居場所みたいなものを作ってあげないといけないと思っていて、起業すべきかもと思い始めています。そのヒントを今の会社で探しているのかもしれないです

 

 

 

お金がないという不安は、多くの人にとって働く原動力になる。収入が安定すると、次は何のために働くのだろうと葛藤する人も多い。

今井さんは「自分がやりたいと思うことをもっと口に出してもいいのかなと。許してないのって自分かなと気づいてほしい」と話してくれた。

働く上で、このポストにいる私はこうあらねばならない、もしくは上司からこうあってほしいという期待で息苦しさを感じているならば、今井さんのように、やりたい事を口にだしてみてはどうだろう。案外、今の役割は自分で勝手に決めつけていただけで、簡単にその息苦しさから解放されるかもしれない。

この記事を書いた人
Kumi

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